新聞に「体育嫌いを考える」というフォーラムがあった。そのタイトルが目に入った瞬間、自分にスポットが当たったように感じて固まってしまった。
私は世界一、体育・スポーツが嫌いな人間だろう。体育の授業がなかったら、ここまで自己肯定感が下がらなかったんじゃないか⋯とさえ思う。実に残酷で苦痛な時間だった。
「体育嫌い」は圧倒的に少数派だと思っていたが、実は同じような思いをしている人が大勢いたのか?
記事を読み進めるとやはり「少数派」とはいえ、その数が増えているそうだ。その「沈黙」の声を集めて聞いて、学校体育の制度を再考して問題点に気づこうという主旨だった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
【小学校時代の体育の授業】
- 走るのが遅い
- 上手くできなくて、球技で他の人の邪魔になる
- それらのことで悪目立ちし、笑われる/怒られる/馬鹿にされる
- 自分は運動神経が鈍くて、他人より劣っていると感じてつらい/怒られると怖い
もし「体育」という教科がなかったとしたら、悪い意味で注目をあびて見下されることはなかっただろう。
運動が得意で活発な子は、教師のお気に入りでクラスの中心的存在。熱血教師と一緒になって運動が苦手な子を大げさに笑い、見下す。誰もとがめない。授業中に運動音痴の私とペアで組むことになると、大声で「え~、この子と組むの?」とまるでハズレクジを引いたような発言をされてしまう。
【中学・高校の体育の授業】
似たような経験はずっと続き、さらに悪化していく。しかしこの時代は自分の好きな音楽や絵に夢中になり、楽しいことに時間を費やす方が「有意義だ」と感じるようになった。体育の授業をサボり、運動会のようなまるっきり軍隊調の行事に参加するのもやめた。マスゲームに、騎馬戦、組体操。「前へならえ!右むけ〜右!全体〜進め!」って今でもやっているのかな?(気持ち悪い)
しかも修学旅行はよりによって山間部でスキー。まるでスポーツ合宿のようで楽しいわけがない。残念ながら学校行事にはいい思い出が一つもない。 ただ、同様に体育が苦手で悪目立ちした級友とは、それがきっかけで親友になった(笑)
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ある分野が不得意な子が集中攻撃されるのは、体育の授業以外ではあり得なかった。私は絵・音楽が好きで得意だったが、逆にそれらが不得意な子たちが、先生から怒られたり、同級生から罵倒されているのを見たことがない。運動が不得意なだけで、「劣等生」「不適合者」の烙印を押されるのは不公平だ。
今でもスポーツは見るのも大嫌い。しかしテレビでもニュース番組の多くの時間がスポーツに割かれている(スポーツを政治利用している政治家も大勢いる)。オリンピックにも高校野球にもワールドカップにも、興味は全くない。 ちっとも癒されない。
その世界とは全く関係のないような美容院の会話や英検の試験問題でも、人は皆「スポーツが好き」であることが前提になっている。別に体育やスポーツに限ったことではないが、「みんなと同じ、大勢多数派であること」を求められるのが気持ち悪い。そもそも学校とはそういう教育方針を実践する場所であり、そのような「扱いやすい人間」になってほしいという狙いは大成功なんだろうけど。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
【声を集めるのなら】
せっかく「体育嫌い」に耳を傾けて、教育を考え直そうとする人が現れたのだから、もちろん期待はしたい。
いじめ・暴力・抑圧・怪我・理不尽さ、など問題は山ほどある。問題解決のため、アメリカではドッジボールが禁止され、体育が選択制になっていると聞いた。
日本の場合は行事や部活動も含めて、まずあまりにも長く続いている「軍隊方式」をやめることが必要だと思う。その点はタブーなんだろうか?
0コメント