【心と身体のつながり】自分は何者なのか?

【変なきっかけ】 

この年末年始、ある界隈のYouTubeや Twitterは「工作員」という文字であふれかえっていた(おそらく今も⋯)。延々と続く疑心暗鬼の渦。誰を信用するかは、自分の直感に従うしかない。私は一連の事件の裏側を暴露した中心人物以外のチャンネル登録を、ほとんど解除した。Twitterを見る回数も、益々減っていった。


しかし、今回はこの事件が自分にとって、別の意味での「目覚め」につながった。「あいつは工作員だ」とか「〇〇界隈では〜」とか言っているが、そもそもそれを眺めて衝撃を受けている私は何者だろう。いや、元々は何者だったのか。答えを求めるとコロナ騒動がその境界線なのではなく、もっと昔、約10年前にさかのぼることとなった。



【Happenings Ten Years Time Ago】 

 「"治療" 迷走記」に書いたように、私は約10年前に何もかも嫌になって、こともあろうか大好きなギターを弾くことを突然やめてしまった。長い年月にわたって大きな心の支えだったのに、もうギターすらも「助け」にならないほどに絶望的な状態だった。


そうなる前は自他共に認める「ギター好き」で、「私と言えばギター♪ ギターと言えば私」と表現できるような人間だった。そんな人間からギターを取ったらどうなったか?

⋯年月を経て「病人」になった。そして目標が「健康になること」って、どう考えてもおかしいんだけど!? 


2020年のこと。突然に指が不自由になったとき、「かわいそうに。もうギターが弾けないなんて、もったいない!」と同情された。その言葉がずっと頭の中でこだまし続けた。ギターをやめたのはずっと前のことで、指の不具合とは無関係。しかしそれより、弾けるのにギターをやめた過去の自分に対して、「なんて愚かなことをしでかしてしまったんだ。これがその結果なのか」とショックを受けた。


当然のように「もう一度、ギターを弾きたい。指がこうなったから、もう弾けないなんてことは絶対にない。治ったら再開するんだ。」と願うようになる。意に反してどんどん重症化して働けなくなってからも、(私にとっては)莫大な金額を治療に費やしてきた。それでも、いい結果は出なかった。




【楽しくしていたら治った実例を見る】 

希望を持ちたくて、手術なしで「自然治癒した実例」を検索し続けた。そして見つけたのが、「好きなことをして楽しくしていたら、いつの間にか『ばね指』が治っていた」というPさんのTweetだった。Pさんは痛みを伴う「ばね指」にもかかわらず、どうしてもピアノが弾きたくて、実際に弾き始めた。普通は逆に指を痛めるのではないかと心配するところだが、その情熱は病気を消してしまったのだ。


それを見つけた時、嬉しくて涙が止まらなかった。心に希望が灯った。自分もちょうど新しいギターを注文して再開しようと考えていたから。しかし現実は⋯ そのあとに届いたギターを喜んで弾いてみたものの、あまりにも指が痛くて弾き続けられなかった。

(物をつかむのも困難だったので)焦らずに、もう少し状態が良くなるまで保留することにした。



【本来の自分に戻ろう】 

そして2023年、1月3日のこと。変な経緯で自分が熱烈なギター愛好家だったことを思い出し、魂が戻ってきた気がしたわけだ。ベッドの下から昨年買った安物のギターを取り出し、チューニングをしてから簡単な練習曲を弾いてみた。意外にも、指の痛みはなかった。フォームによっては押さえるのがつらいけど、気をつければ大丈夫そう。 


その次の日も弾いてみた。夢中になって、何時間も⋯。約10年のブランクがあっても、レパートリーだった短い練習曲に関しては指が勝手に動いてくれる。久しぶりすぎて腕が筋肉痛になったけど、指は痛くない。 ギターは弦を押さえる左手も、奏でる右手もぎゅっと握り込むわけではないので、完全に曲げ伸ばしができない状態でも弾けそうだ。むしろ鉛筆で文字を書く方が、痛くて30分も我慢できないぐらい(鉛筆やお箸がうまく持てない)。 


そしてまた、次の日も弾きたくてたまらない(=本来の自分に戻っている)。不思議なことに、指の調子が良くなっている。もしかして指を動かすことで、リハビリになっているのか? 以前読んだ梯谷幸司さんの本、「本当の自分に出会えれば、病気は消えていく」を思い出した。


その中に「やることが明確で、それが生きる目的に沿っている場合、脳はそれを実現するために動き出します。脳にはもともとそうした機能が備わっているのです。」と書いてあった。まさか、それは(人生において仕事や職業がどうとかという問題ではなく)私にとってはギターだったのか!?




【また「本」にヒントが現れる】 

処分してしまったギター関係の実用書を買い直そうかと検索しているとき、偶然に兵庫県姫路市出身のクラシックギタリストの松田晃演さん(アンドレス・セゴビアの愛弟子)の書籍が目に入った。もう実用書はどうでも良くなって、その電子書籍「ギターは小さな星のオーケストラ」を読むことにした。


巨匠からギターを学んだ時代の貴重な体験、裏話などが盛りだくさんで、面白くてどんどん読み進めた。そしてこの書籍の最後の方に「ギター健康法」として、松田さんの奥様のお話が書かれていた。 


奥様は若い時にリューマチを患っていて、胡桃か何かを持って指を動かしていないと、動かなくなってしまうかもしれないと医者に言われたそうだ。しかしご友人からギターを勧められて、松田さんからギターを習い始めているうちに症状が治まったというのだ!


「本人のギターへの情熱とギターの演奏が健康に貢献したのであろうか」というように書かれているが、きっとそうだろう。 私はリューマチではないが、症状としては似ている。このタイミングで、このページに出会うために、この本を手にすることになったとしか思えない。それ以降のページでは、身体に負担をかけないフォームや注意点が詳しく書かれているので、理解して気をつけて演奏すれば大丈夫だと確信が持てた。




【「好きなこと」を大切にしよう】 

「単なる趣味」なようで、実はそれ以上に自分の心の支えになっているもの。例えば絵を描くこと、旅行、写真、語学学習、読書、登山、プラモデル、手芸、研究、なんでもいい。ずっと続けてきた「大好きで大切なこと」を何らかの理由で突然にやめてしまうのは、単に「もったいない」だけの問題ではない。


周りがあきれるほどに夢中になれることに出会えるなんて、本当に素晴らしいこと。どうか、私のように判断を誤って大切なものを突然手放してしまい、泣くほどに後悔しないでほしい。もし何かの事情で「疲れたから一旦やめて、また定年後に再開しようか」と思っている方がいらっしゃったら、先延ばしにせず続けていただきたい。可能な限り、何か続けられる方法を探ってほしい。


やめてしまったけど、きっと「パラレルワールド(並行世界)」ではそれを続けている自分がいる⋯なんて考えようとしたこともあった。その「異次元(笑)の自分」は、やめてしまった「こっちの自分」のことなど1秒も考えないだろう。異次元に思いを馳せてても、何の意味もない片想い。


「こっちの自分」は今、ギターを再開する道を選んだ。過去にクラギ練習日記を長期にわたって公開し続けていたが、またその続きを別ブログで始めたいと思っている。タイトルは自虐的に「クラシックギターを『再び』始めたからには!」にしようかな。 



「クラシックギターを『再び』始めたからには!」(別ブログ)

https://ameblo.jp/kuragihajime/



迷走記 〜人生は選択の連続〜

理不尽な世の中に対する少数派の心情/人生の転機に思うこと/自己治癒力を信じる/神戸周辺の歴史的建造物や史跡など

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